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2008/02/19 (Tue) 07:03
私たちは嬉しいことがたくさんあるとき、多少の悩みは克服できます。百の好事が山積するとき、壱の悩みは小さくなります。自分は万事、絶好調、何をやっても楽しいときは、素直な気持ちで他人と接し、心も寛(ひろ)く保てるものです。嬉しい、楽しい、心地よい、現在(いま)このときが満足ならば幸福なのだと実感します。
しかし、何に対して満足しますか?何を得たなら幸福ですか。それは、一人ひとり違います。あなたの欲求、趣向や好み、今の境遇、そして体調、その時々で感じるものに違いが出ます。
私たちは成功したと感じるときに、嬉しい、楽しい、ウキウキ、ワクワク、色んな気持ちを体感します。しかし、60点で喜ぶ人や80点で落ち込む人など、その水準はさまざまあります。そこに絶対性など存在しません。あなたが何に反応し、そして何に快感するか、それは個人の問題なのです。つまり、私たちの幸福感は人それぞれなの感覚なのです。
しかし、一人ひとりの感じる快感、幸せなのだと感じる感覚、それが幸福なのだと公言するなら、自己満足が大手を振るい、我儘(わがまま)、自惚れ、悪行さえも幸福なのだと容認されます。自分が良ければそれで良い、それがすなわち幸福なのだ、そういう思考が秩序を乱し、身勝手、横着、利己的愚行、淫らな行為が横行します。幸福それは良いことなのだ、そういう思想は破綻となります。
だから社会は許さない。個人々々が満足し得ても社会の価値は認めない。社会はそこに干渉します。あなたが感じる心の快感、それはあくまで自由であっても、幸福だとは限らない。それは、すなわち幸福感だと。幸福自体と別個のものだと。幸福感は必須であっても、=幸福なのだと言えないものだと。
ここで一つ、譬えをあげて解説しましょう。あなたは麻薬に嵌(はま)っています。アヘンを吸って気分は爽快。あなたにとっては快感なのです。かつて無いほど酔いしれる。骨の隋まで快楽(けらく)に満たされ、歓喜があなたを満たします。気分は幸福そのものなのです。しかし、それでも愚かな行為、あなたの気分の如何によらず、それを幸(さち)とは呼べないはずです。誰がそれを羨望し、そして善だと容認しますか?
どれほど気分が高揚し幸福感に満足し得ても、それはあなたの勝手な行為、幸福なのではありません。むしろ、愚かと蔑むはずです。快楽(けらく)の果てにあなたを待つもの、それは生命(いのち)の破滅です。身体を蝕み、正気を保てず、心身ともに朽ち果てる。麻薬の依存は自立を壊し、暮らしを破綻へ導くものです。
“私は、それでもかまわない、私の身体は私のものだ。私が私に何をしようと、それはあくまで私の勝手だ。”
あなたが良くてもそれを社会は赦さない。社会は麻薬を禁じています。それでもあなたは言うでしょう。
“「幸福」それは私的な事だ。私が死のうと私の勝手だ。他人の自由を侵さぬ限り、私は私を自由に出来る。体験、それは私がするのだ。私が思う(考える・想う・感じる)あらゆる事象は、私にとっては実在なのだ。私の世界は私が描く。描いたとおりに(私が思うとおりに)実在するのだ。私が幸だと感じることは、私にとっては実在なのだ。誰にもそれは干渉できまい。何を考え、何を想い、そして何を感じようとも、それはあくまで私の自由。私の心の問題なのだ。”
確かにそうです。例え、あなたが悪事を為そうと空想ならば、まったく自由。誰もあなたを断罪し得ない。しかし、自由はそこまでなのです。何かを語り、何かをしたとき、社会のルールは干渉します。常識、道徳、法律、慣習、それら社会の約束事は、平和な暮らしを確立するため、権利と義務を求めて来ます。
基盤と秩序、暮らしの安全、集団内の規律や統制、それが社会の役割なのです。平和と安全、より良い暮らし、その目的を実現するため、個人の勝手を取り締まる。社会は世論を内包し、倫理や道義も尊重します。
つまり、社会は、みんなの“自由”、みんなの“幸福”、その最大限を実現するため、個人の違反を取り締まる。変態、突出、狂気や愚か、そうした異質を危険と見なし、個人の自由を犠牲(義務)にしながら、権利と平和の基盤を守る。
かくして社会は秩序を基に、幸を得られる土壌を作り、そして機会を与えるものです。例え、自分がそれで良くても、社会正義に反する行為、それは幸ではありません。幸福、それは社会の価値観、あくまで世相に基づくものです。
治安、法律、健康、福祉、道徳、経済、利便・・・地域や時代の変化の中で社会の基盤は形成されます。世論や道徳、みんなが認めるルールや期待、社会はそれらを内包しながら、一人ひとりを守っております。ですから、それは“社会からのお墨付き”。つまり、社会の道理に則していること、それが幸への前提なのです。幸福、それは個人のものでも、社会があって生まれるものです。私たちは社会に生まれ、社会で育ち、社会を維持し、そして社会で生きるのです。
テーマ : 幸せになる考え方 - ジャンル : 心と身体
2008/02/19 (Tue) 07:08
幸福感は幸福自体と異なるものです。幸福を満たす要件ですが、幸福感=幸福なのではありません。自分の心の問題なのです。幸福なのだと感じる気持ち、それは確かに幸福感です。そして、それは各人各様。あなたが何に反応し、そして、何に感動するのか、それはあなたの好みです。あなた個人の感情なのです。
しかし、幸福、それは幸福感とは違います。幸福、それは行動自体も同時に含む。感情だけではありません。社会の是認が必要なのです。私たちは一人ひとりが互いを求め、関係し合って生活します。生まれたときから社会の中で、ルールに従い、秩序に守られ、依存し合って暮らしております。
魚は海で生きており、サルは森で生きている。それとまったく同じです。私たちは社会で暮らし、社会がみんなを生かしております。政治、経済、教育、福祉・・・社会はそれらを内包し、秩序を作り、食を確保し、幸のチャンスを与えてくれます。
社会がなくては、治安は保てず、私たちは混乱します。かくして社会、それは幸の基盤を創り、治安があっての快感なのです。結局、最後は社会が守る。社会の是認が必要なのです。
しかし、それでも、幸福感は必須のものです。幸福感が欠けた幸福、それは体裁だけに過ぎません。形骸化した外面(そとづら)だけです。社会の是認は必要ですが、幸の本質、幸の真髄、それは結局、幸福感です。
快感、それは私的なことです。しかし、それでも社会の前に自己があり、社会の前に心が在ります。私は私が主体であって、あくまで社会は環境なのです。私が先で社会は後です。すべての事象は、私が在るから意義があり、私が無ければ無意味となります。社会もそれと同じです。幸福感は個人のものでも個人にとっては最大価値です。究極的には一番なのです。
ここで一つ、譬えをあげて解説しましょう。あなたは野菜が嫌いです。顔をしかめて野菜を食べる。特にセロリは大の苦手。それでも野菜は必須のものです。健康づくりに欠かせぬものです。誰もが食べろと野菜をすすめ、元気の基だと解説します。それはすなわち、あなたのためになることなのです。あなたはしぶしぶ野菜を食べます。我慢をしながらセロリを食べます。時折、吐き気があなたを襲い、不快が身体を貫通します。それでもあなたは幸せですか?
幸福なのに苦痛を感じる。幸福なのに我慢が伴う。幸福なのにつらく悲しい。それは、やはり偽りなのです。幸福なのではありません。“健康になるため、大の苦手な野菜を食べる”、それはすなわち、幸を得るため苦痛を耐える、そういうことかも知れません。幸福自体と言えないものです。
幸福、それは心地のよいこと。幸せなのだと感じることです。快感なくして幸など有り得ず、快感なくして意欲は湧かない。快なくして求める動機はあるのでしょうか。
生あるものの行動パターン、それは即ち、快苦の法則。快を追いかけ、不快を避ける。快のために不快を忍ぶ。快感あっての生きがいなのです。富や名声、美貌や権力・・・それらは全て快感ゆえに追い求め、快楽あっての羨望なのです。
幸福、それは気持ちの良いこと、幸福感こそ本質なのです。社会の価値に反することなく、幸福感を体感すること。みんなが認めるルールのうえに幸福感を獲得すること。それが結局、幸福なのです。社会と個人の折り合いなのです。
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2008/02/19 (Tue) 07:10
幸福感は、幸福に占める絶対要件、それが無ければ成立し得ず、それが生への意欲を生み出し、生産、活動、夢や目的、生きがいさえも創出します。
幸福感とは、自分の望みが叶うこと、欲(ほっ)することが実現すること、うれしい、楽しい、心地がよいなど、満ちた気持ちを感じることです。
それでは、ここで、自分の望みが叶うこと、欲(ほっ)することが実現すること、それはいったい何でしょう。望みや欲(ほっ)する、それはすなわち、その対象に価値を置くこと、自分が価値を感じることです。自分にとっての価値の実現、それが幸福感を創出せしめ、満ちる気分を体感させます。
では、自分にとっての価値の実現、“価値”とはいったい何でしょう。有用性と希少性、それら2つを合わせ持つもの、それが価値の定義です。水や空気は有用ですが、誰でも容易に獲得できます。希少性が無い限り、そこに価値など無いのです。
では、希少性はどうでしょう。うっそうと繁る個々の雑草、蟻の群れの一匹一匹、あるいは、ごみの1つ1つが世界に2つとないものです。しかし、それらも有用性がない無い限り、そこに価値など見出せません。
有用性とは役に立つこと、希少性とは少ないことです。それら2つが相俟って価値認識が生まれて来ます。そして前者は個人によって違いが出ます。何に対して感覚するか、好みが色濃く反映されます。
どんなものにあなたは惹かれ、どんなものになりたいか。何を手に入れ、どんなことを達成したいか。人によってさまざまです。有用性はあなた自身の価値観です。あなた自身の好みや思想、それらが色濃く反映されます。
一方、希少性とは需給のことです。需要と供給、そのバランス自体が希少を決めます。希少であれば希少であるほど、そうした理解が喜悦を高め、幸福感を増大させます。その対象が希少であれば、自ずと入手は困難です。それを乗り越え獲得してこそ、幸福感は増すのです。
ここで譬えをあげて解説しましょう。例えば、あなたはバックを買った。人気が高く、入手をするのは極めて困難。至る所をつぶさに探し、購入するまで5年もかけた。そして叶ったあなたの願い。その感激は心を踊らせ、夢のような気分に浸る。あなたの歓喜は一入(ひとしお)なのです。
希少性は価値を高め、幸福感を増幅します。もちろんあなたの視点でけっこう。あなたが希少と感じる限り、あなたにとっては貴重と言えます。あなたが貴重と感じる程度に価値の程度も増すのです。
あなたにとっての価値の認識、それはあなたの人生観です。あなたの思想、あなたの嗜好、これまで生きたあなたの体験、全てがそこに包含されます。あなたが価値を認識したとき、そこに欲が発生し、その欲求が満たされたとき、幸福感が生まれて来ます。
あなたの所持する名もない絵画も、ピカソの筆だと判った瞬間、突然、歓喜が発生します。何故、歓喜は発生し得たか?ピカソの絵画が貴重なためです。ピカソの絵画が何故、貴重か?それは結局、価値観なのです。
もちろんピカソは天才だった。絵画自体が名作だった。しかし、それでも、どんなに優れた名品だろうと、たくさんあれば需要は鈍る。需要>供給!入手の困難!希少性が価値をも高め、あなたの欲をそそります。あなたが欲しいと感じる程度に幸福感も増幅します。あなたにとっての希少価値、それに基づくあなたの欲求、そして、それを叶える実現度合、そうした相互の仕組みの中で幸福感は生まれて来ます。
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2008/02/19 (Tue) 07:14
では、希少性と必要性、何故、後者でないのでしょうか?もちろん後者も幸福感を増幅し得ます。空腹感を満たしたときなど幸福なのだと感じるものです。しかし、それでも、必要性の充足は、あくまで一時の快感なのです。要が足りれば消え去るものです。そして容易に体験できます。
一方、希少性のもたらすそれは、必要性より継続的です。その対象を大事に扱い、何度も何度も眺めるものです。例えばそれが物でなくとも、何度も場面(ファーストキスなど)を回想します。あなたの買ったブランドものも、あなたの所持するピカソの絵画も、希少であるから羨望される。羨望されて快が生まれる。羨望、それは羨(うらや)ましいと感じる気持ち。羨望されて優位が生まれ、優位に立って快は生じる。希少性がもたらす快感、その正体は羨望されるということなのです。
何度も言います。生きることとは、闘いなのです。生存競争、それに打ち勝ち、子孫を遺す。これが自然の在り方なのです。生の性質、心の仕組み、それは結局、生存すること、それを基盤に存立します。羨望されて優位が生まれ、優位に立って快が発する。自分の優位、自分に対する特別視、それはまさしく安堵や勝利、生き抜くことへの快感なのです。
希少であると認識すること、それを求める想いの強さ、そして入手の困難性、その相関が価値を吊り上げ、同じ見方を有するものから羨望されるということなのです。自分が周りに羨望される。羨望されて気分は良くなる。それは自分の優位の証(あかし)。幸福なのだと体感します。
周りのみんなが羨むことで、自分の優位が明かされる。周りの賞賛、優位な立場、そして、それは勝利の快感!基本となるのは競争なのです。周りを鏡に優位を自覚し、己の勝利を体感すること、それが歓喜の深層なのです。
羨望されて生まれる快感、それは幸福感の代表格です。愛されることの幸福感/名声から来る幸福感/地位や権力から来る幸福感/所有から来る幸福感/美貌から来る幸福感/努力の後の達成感・・・それらはすべて羨望、優越、自尊から来る幸福感です。
もちろん、この世のすべの幸福、それが羨望なのだと限りません。身体的な幸福感、官能的な幸福感、それらはあくまで生理的な仕組みに因ります。SEXをした時の充足感/ご馳走の後の満腹感/休憩、休息時の安らぎ感/渇いた時の充足感/病や激痛からの開放感/音楽・絵画に浸る陶酔感/快適ゆえの心地よさなど、羨望などとは別個のものです。
しかし、それでも、羨望ゆえの幸福感、それはやはり幸福においては主要なものです。羨望⇒優越、それは、思考で生まれて来ます。解釈されて生まれて来ます。それは、あなたの認識なのです。思考が周りと比較を行い、事象を優位と認識します。他者に対する優位な立場、人より何かに秀でる自分、こうした理解が虚栄を満たし、自我の気分を優越せしめる。生存競争、弱肉強食、それが土台にある以上、自己の優位が快感なのです。
自分の優位を実現ならしめ、家族の暮らしの安堵を図る。遺伝子どうしが凌ぎを削り、優位に立とうと必死に抗う。勝利に基づく「幸福感」、それが自然な形と言えます。
“私に対する周囲の評価”“私が周囲に与える印象”“私に対する周囲の応対”そうしたことも生き抜くためには重要なのです。
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2008/02/19 (Tue) 07:17
私たちは気分の良いとき、その快感に嵌ります。その状態に縛り付けられ、行動の自由が制限されます。幸福感も同じです。幸福感は警戒心を低下させ、ストレス、疲労、緊張感を開放します。今ある状態、その現状維持を望みます。そこに不満はありません。抵抗などはありません。心地よさがあるだけなのです。すなわち、それは停滞なのです。
特に“享楽”、それに基づく幸福感は、身を持ち崩す因(もと)ともなります。そのとき良くても、後で苦痛をもたらすものです。だから、社会は享楽主義を軽蔑します。享楽⇒堕落と蔑視の目を向け、努力や克己を薦めます。
しかし、それでも快感、快楽、官能的な享楽さえも、悪いものではありません。適度、節度の問題なのです。快感なくして価値など在り得ず、快感あっての生きがいなのです。そして何より、気持ち良さを求めることは、私たちの性分なのです。それを止める自制の意志は、本来、自然と逆行します。
ですから、身体に生理が在ります。食事の後の満腹感、SEXの後の充足感、運動の後の疲労感など至るところに歯止めを設け、新たな変化へ後押しします。幸福感もそれらと同様、自ずと快は衰退します。私たちの身体の仕組みは、一つところに留まらないよう“冷める”、“飽きる”が内在します。刺激の鈍化、行為の飽和、その感覚が固執を断ち切り、新たな変化を生むのです。
“冷める”、“飽きる”は、変化の基です。すべての事象は移ろい変わり、不変のものなど存在しません。幸福それも、また然り。儚く、脆く、色褪せる。だから、我らは追いかける。移ろうからこそ追い求め、消え去るからこそ価値を置く。もしも、全てが永遠ならば、刺激は薄れ、感度は鈍る。どんな仕事も、どんなゲームも、そして、どんな感激だろうと、束の間だから大切なのです。
生あるものは刺激を求め、それに飽いたら次へと移り、変化の中で生存します。恋のときめき、人の優しさ、出会いの感動・・・どんな歓喜を湧出しようと、いつでも初めが新鮮なのです。最初のデート、2度目のデート、そして、3度目・・・・次第に鮮度は鈍化を辿り、どんな刺激も馴化する。人は刺激に慣れるもの、生には変化が必要なのです。
“冷める”、“飽きる”は変化を誘(いざな)い、新たな道へと踏み出す基です。冷めるがなければ留まり続け、飽きるがなければ進歩は止まる。幸福感が現状維持なら、“冷める”、“飽きる”は革新なのです。飽き(以下、“冷める”を含みます)があるから成長できる。飽きがあるから前進できる。飽きがあるから感動できる。飽きがなければ変化は起きまい。飽きがなければ活気は湧くまい。そこには必ず淀みが生じ、生(せい)の腐敗が忍び寄る。飽きとは、変化を誘(いざな)うものです。変化を促がす推進力です。
“そろそろ、区切りは、ここらで良かろう。次の旅へと出立するのだ!”
飽きは現状維持を捨てること、希望と未来の一翼なのです。
整理をしましょう。生(せい)とは体験そのものなのです。生とは何かを感ずることです。飽きがなければ変化は起きず、変化なくして行為はあらず。行為がなくては体験できず、生(せい)それ自体も生まれて来ません。
飽きは、我らを体験させる。飽きは我らを感動させる。新たな門戸の扉を開く。飽きは即ち、自分を創る。新たな事象へ我らを促がし、新たな自分を創り出す。これが飽きの役割なのです。
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