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2008/02/19 (Tue) 22:32
善とは何か?悪とは何か?それは思考と共に出現し、思考と共に消え去るものです。不変の善などこの世に在り得ず、善悪自体が相対的です。善悪、それは解釈なのです。思考があるから存在し、思考があるから問い掛け続ける。物や出来事、あらゆる現象、そのもの自体は有り体(てい)ですが、思考がそれらに意味を貼り付け、思考がそれらに着色します。意味や価値を捏造し、勝手に事物を解釈します。それが思考の在り方なのです。
善に限らず、悪に限らず、人の創った約束ごとは、思考と共に出現し、時代や環境、立場や価値観、好みや感情、あらゆる視点で姿を変えます。全(まった)き善など存在し得ず、人の数だけ善があり、人の数だけ悪がある。思いの数だけ変化が現れ、諸相の数だけ存在し得る。善悪、それは解釈なのです。
生きとし生けるすべての中で、人間だけにルール(狭義)があります。人間だけに社会があります。何故、思考はそれらを創る?それは、かくして、殺し合いから逃れるためです。私たちは殺し合いに耐えられません。痛みや恐怖に耐えられません。思考が虚妄を煽りたて、常に心が緊張します。明日(あす)、殺(や)られるか、今日、殺られるか、そうした過酷に耐えられません。それでは心が壊れてしまう。思考が狂気を産むからなのです。
“汝、人を殺すなかれ!”これは聖書の中の言葉です。私たちは“生あるものの命を奪う”、それは、悪だと教わりました。中でも殺人、それはあらゆる悪でも重罪なのです。もっとも重い極刑なのです。
では、“人の命を奪うこと”、それはどうして極刑ですか。何ゆえ、それは極悪ですか。かくして、それは、自分自身が生存したい。殺されたくは無いからなのです。そして、それは、すべての人に共感としてあるからなのです。
それでは、戦争!そこで人を殺すこと、それはどうして英雄ですか。何故、それは最善ですか。すなわち、それは、自分の敵であるからなのです。相手も自分を殺しにかかる、命を奪いに来るからなのです。
テーマ : 自己啓発 - ジャンル : 心と身体
2008/02/19 (Tue) 22:40
私たちは、自分の生命(いのち)が大切なのです。基本的には誰でもそうです。至極、当然、本能としての欲求なのです。誰も責めたりできません。生きることへの共感なのです。私たちは、その共感を基盤としながら、社会や国家を構築します。人には親切、困った人は助けましょう!悪い人は罰しましょう!こうした教えを基本としながら、私たちは養育されます。
ですから、それらは、悪に対する歯止めとなります。家族や友人、愛しい恋人、自分を囲む仲間の期待、それがあるから歯止めが掛かる。罪悪感があるからなのです。逆を言えば、家族や友人・愛する人のいない人、常に孤独を生きて来た人、そういう人に悪いことなど存在しません。罪悪感など無いからなのです。
平気で生命(いのち)を殺める人は、常に孤独と非情の中で、虐待を受け育った人です。親から冷たく扱われ、そして周りに傷つけられる。愛をまったく与えて貰えず、だから、愛などまったく知らない。不満はいつしか心を閉ざし、そして、他人を拒絶する。
別に生きていたいと思わない。自分は死んでもかまわない。悲しむ者など一人もいない。だからあなたは感じない。人を殺っても判らない。心の痛みが無いからなのです。
人と人との信頼関係、そこに愛がまったく無いとき、私たちは生命(いのち)の価値を感じることなど出来ません。自分が誰かに愛されている、これこそ生命の価値観なのです。これこそ生命の温もりなのです。愛されてこそ、あなたは生命(いのち)の重さを知ります。愛を注がれ育ったものこそ、愛する行為が可能となります。人は誰しも自分の味方、自分を愛してくれる人、差別をせずに自分を守ってくれる人、そうした好意を大事にします。だから、価値を知るのです。失うことの恐怖を知ります。人の痛みを知るのです。
殺めることが平気な人は、自分が誰かに愛されている、可愛がられて大事にされる、その体験が無かった人です。人は結局、自分の価値観、そして体験、自分の世界で生活します。そこに悪など存在しません。基本的にはいつでも善です。行動パターンがあるだけなのです。
話しを元に戻しましょう。私たちはルールを創る。殺し合いから逃れるために善と悪とを創り出す。人を助ける行為が善で、人を殺める行為が悪と。究極的にはそういうことです。これがルールの始まりなのです。まずは生命(いのち)の保全を図る、それが何より大切なのです。
生命(いのち)があって、すべてが始まる。家族や恋人、そして幸せ、それらもすべて自分が在るから体験できる。自分が在るから感動できる。殺(や)られることはとても苦しい。それはどんなに痛いだろうか。死ぬとはいったいどういうことか?暗闇の中、自分はまったく孤独だろうか。みんなとそこで別れて生きる、それは到底受入れ難い。仲間と共に過ごしたい。家族と共に暮らしたい。
“愛する者と一緒にいたい”、それこそ愛を知る人なのです。かくして、愛とは共感なのです。自分は生きたい、そして、仲間と暮らしたい、だから、生命(いのち)を確保する。殺しは“悪”だとルールを創り、互いの利益を確約させる。こうしてルールが創設されます。
愛と共感、それはルールの源なのです。そして善悪、これがルールの基準となります。人は誰しも欲(ほっ)するものです。自分の幸を追い求め、自分の利益を叶えたい!生命(いのち)の保全が確約されると今度は範囲が拡大されます。宗教、道徳、財産、法律・・・、あらゆるところにルールは創られ、そして基本は、“人の権利を奪うこと”、それが“悪”だと普遍化されます。
テーマ : 自己啓発 - ジャンル : 心と身体
2008/02/19 (Tue) 22:45
かくして、それは、“自分の幸こそ善であり、それを害する行為は悪!”と、そうした本音が隠れております。自分の利益を実現するため、互いに利益を調整し合う。自分の権利を確約するため、互いに義務を受け入れる。あくまで自分が主体であって、こうしてルールは形成されます。
善を尊(たっと)び、悪を罰する!それで相互の利益を守る。それこそルールの本質なのです。これこそ、善悪(せいぎ)の真相なのです。弱肉強食、暴力、腕力、そこから基準が変わっただけです。力が知性へ置き換わり、そして多様なルールへ代わった。文明、文化を構築し、権利と義務が加わった。
しかし、あなたは疑問に思う。釈然としない何かが残る。そして、あなたは言うでしょう。自分の幸こそ善だと言うなら、利己的行為は善となる。自分の利益を犠牲にしてまで、人を助ける行為は悪か?自分の幸を放擲し、他人のために奉仕する。これこそ善だとあなたは思う。善や正義は神聖なのだと。
もちろん、それらは確かにそうです。そこに疑問の余地など皆無。“自分の命を顧みず、他人のためにこの身を捧ぐ”、この行動を誰もが為すなら、全ての人が幸せなのです。互いが互いを助け合い、互いのために力を尽くす。これこそ善の理想の姿、みんなが求める本願なのです。“みんなの幸を実現すること”、これこそ善の究極なのです。
“自分の犠牲を奨励し、みんなの幸を重んじる”。それを誰もが実践し得たら、世界の平和が実現し得る。我欲のままに行動するから、幸を支える秩序を壊す。だから我らは犠牲を掲げ、そして無償を賛美する。“自分の犠牲”、を奨励し、“自分の利益を確保”する。かくして、それは、自分の幸を実現するため、自分の幸を放棄する。そうした矛盾を引き起こす。
自分の幸を実現するため、善のルールを確立し、そして自分の犠牲を強いる。これこそ、まさしくジレンマなのです。自分の幸を実現するため、我らは善を創造し、そして善こそ犠牲を強いる。だから、それらは複雑なのです。そして本音は隠される。自分の幸こそ大切なのだと、そうした本音は葬り去られ、みんなの幸こそ最善ですと、社会のルールへすり替えられる。
だから、我らは用意する。犠牲(善)のために潰えた幸を、あの世の世界で確約すると。みんなのための気高い犠牲は、必ず神が報いてくれると。善は、我らに犠牲を求め、他方、利益を確約し得ない。だから、あの世(神)を捏造し、この世の秩序を補完する。
以上が善の真相なのです。社会で生きる宿命なのです。そこでは利害が激しくぶつかり、調整し合って生活します。だから、犠牲が求められ、だから無償が賞賛されます。犠牲と無償、それらは他人(ひと)に譲ること、自分のそれより、みんなの欲を優先すること。それをみんなが実践してこそ、平和や秩序が保たれやすい。だから、それを善となし、社会は“みんな”を優先します。
かくして、善悪、そこに解などありません。人の思惑、利害や解釈、それが常に動いております。時代や環境、民族、宗教、いろんな要素が輻輳します。
結局、最後に求めるものは、動機を問うしかありません。自分のためか、相手のためか、利己的なのか、愛からなのか。行為の発露が大切なのです。行為の結果は不測に尽きる。よかれと思って為した行為が仇なす結果を招来したり、それが、得てして迷惑だったり、動機と結果は、ちぐはぐなのです。
行う側と受け手となる側、そのそれぞれで視点が異なり、普遍の善など存在しません。切り口、角度で見方は異なり、立場や主観を超越し得ない。我らは常に自分の都合が視点となります。吉と出るのか、凶と出るのか、行為の結果は起きて、初めて確定します。
だから、動機が問い質される。動機があなたの心を映す。その人固有の資質を示す。愛の発露を善と呼び、我欲の発露を悪と呼ぶ。かくして、それは、“みんなの生命(いのち)を支える(活力を与える)行為”、それが善と呼ばれるものです。そして、それは観念なのです。あくまで思考の産物なのです。
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2008/02/19 (Tue) 22:47
本来、善とは行為のはずです。本来、悪とは行うことです。それらは、あくまで行動なのです。しかし、思考は着色します。善とは何か、悪とは何か。行為は言葉に置き換えられて、立場や利害が対立します。すると善は、その都度、変わる!そしてルールは修正される!なぜなら、ルールは運用なのです。秩序を保つ方便なのです。
立場や利害が必ず絡み、いつでも意見は衝突し合う。意味をすり替え、思想を捻じ曲げ、正義の名のもと置き換えられる。だから、いつでも変異する。解釈自体が手段に使われ、誠意が恣意へと成り下がる。
時代や環境、支配する側、される側、互いの立場や思いの中で、社会のルールは転変します。修正、改正、類推、削除・・・常に変化が繰り返されます。関係性が秩序を支配し、強い者の論理(思考)が蔓延(はびこ)る。何が善くて何が悪いか?それらは最後は力学なのです。そして、それは駆け引きなのです。それがすなわち、生存競争、優位を争う欲望なのです。
どんなに心が巧妙だろうと、必ずどこかに我欲が潜み、自分の利益が隠れております。あらゆる起点は必ず自分、無私であるなど不可能なのです。“徳それ自体の実践のため、あるいは、みんなの幸福のため、自ら自分を放棄する”。そうした行為は不可能なのです。何かの期待がどこかに潜む。確たる自覚が足りないだけです。
断言しましょう。人は誰しも、自分の心を優先し、自分のために行為する。どんなに巧みな行為であろうと自己実現へと回帰する。快感・幸福、苦痛の回避、それが最たる目的なのです。
我らが神を崇める動機も結局、幸へと結び付く。神の教えを私は守る、代わりに幸を約束せよと。あなたが神を求める動機も究極的には欲望なのです。それは違うとあなたが言うなら、深層心理を知らないだけです。裁きと罰のみ与える神なら、端から神など崇めはしません。喜び、ときめき、楽園、天国、それこそあなたの目的なのです。
欲望こそがこの身を支え、欲望こそが希望(生きがい)を創る。欲望、それは本音で動く。欲望、それは好みで動く。快楽(けらく)の追求、苦痛の解放!それが生命(いのち)の本質なのです。私たちは利益(快)を求め、今現在に留まり切れない。もっと、もっと、を繰り返す。それが自分を変化へ誘(いざな)い、目標・目的、夢や冒険、刺激を求めて繰り返す。
期待や願望、希望や祈り、何かをしたい、したくない、それらは結局、欲望なのです。神聖、正義、勇敢、誠実、どんな行為の擬態をとろうと“求める”行為は欲から出ます。それはすなわち、“欲する”ことです。欲しいと感じる欲求なのです。
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2008/02/19 (Tue) 22:50
しかし、それでも、欲望だけでは衝突します。闘争だけでは絶滅します。だから、ルールが必要なのです。善悪、それは社会を支え、権利を守る基盤となります。生活土壌を下から支え、あらゆるルールの基本となります。しかし、それでも、あらゆる行為は選択できます。善であろうと悪であろうと、あなたが行為を選択します。あなたの考え、あなたの価値観、あなたの趣向やあなたの行動、それらは結局、私的なことです。あなた自身の領域なのです。最後はあなたが決定します。
例え、あなたが仲間を傷つけ、誰かの利益を侵害しようと、なおも、それは立場の相違、確たる悪とは言えません。どんなに醜い人間だろうと、どんなに下劣な人格だろうと、この世に悪など実存し得ず、それはあくまで相対的です。思考が創った解釈なのです。
人が人を侵害し、人が人を支配する。横暴・殺戮・裏切り・虐待・・・それらは現に実存し、そして悪だと断罪されます。しかし、行為に理由があります。立場に基づく見方があります。悪を行う者から見れば、それは悪ではありません。互いの利益が異なるだけです。
だから、それらは解釈なのです。立場や視点で見方が違う。善悪、それは便宜に過ぎず、絶対、完璧、完全、無欠、そうした不変は存在し得ない。生とは欲望そのものなのです。
仮に誰かが拳(こぶし)を誇示し、殴り合いが好きだとしても、ボクサーならば賞賛されます。行為者自身の価値観・性質、生きる世界の相違に過ぎず、同じ見方を有する者には、結局、悪など存在し得ない。見方の相違、利害の衝突、そこから悪が生まれて来ます。だから、あなたが何かを為そうと、絶対悪など存在しません。あるのは社会の価値観なのです。あるいは、あなたの罪悪感です。
あなたが何かを決定するなら、恐らくそれは実行されます。誰もあなたを干渉し得ない。生き方、考え、好みや感情、それらはあなたの内面なのです。あなたが鍵を渡さぬ限り、誰もそこへは入れない。あなた自身の領域なのです。
しかし、それでも、この世に因果は必ず在ります。あなたが発した言葉や行為が、誰かの権利を侵すとしましょう。自由や権利は平等なのです。相手の意思にも自由が在ります。その反動は必ず起きます。それを被(こうむ)る相手の想いが、あなたの行為を是正にかかる。制裁、刑罰、いじめや追放・・・何かの形で報復されます。
ましてや社会は集合体です。あなたは社会の一員なのです。社会のルールは秩序を保ち、あなたの行為を規制にかかる。“互いの自我を抑制し合い、互いの権利を保証する”、それが行為の担保となります。だから、あなたはルールを守る、他人の権利を侵さない。
かくして、善悪、それは社会の思惑なのです。秩序を保つ方便なのです。社会がそれを捏造し、社会がそれを運用します。善悪、それは社会が決める。結局、ルールは社会が創る。調和に資する行為が善で、それに反する行為が悪と。
だから社会は認めない。利己主義、はみ出し、突出、変態、・・・そうしたものを忌み嫌う。人間、それは共同体です。似たもの同士の共存なのです。似たもの同士で愛し合い、似たもの同士でいがみ合う。決して一人で生きてはいけない。だからルールが必要なのです。
如何なる行為を選択しようと、結局、最後はあなたが決めます。善悪、価値観、優劣、清濁・・・それらはみんな相対的です。例え、あなたが恐怖におののき、友を置き去り、逃げたとしましょう。それでもあなたは悪いと言えない。批判は起きても、単に逃避は行為に過ぎない。誰かが悪いと批判を為しても、それは誰かの価値観なのです。そして、批判は感情なのです。
むしろ、私はあなたに言いたい。どんな事態も正義を貫く。どんな事態も勇気を保つ。それこそ心に苦痛を強いる。人間らしく在っていい。自分を蔑み、自分を責める。そんな愚行は本末転倒!誰にも弱さはあることなのです。人は誰しも恐怖に屈し、そして自分を可愛がる。それはそれで自然なことです。あなたの意思は自由なはずです。“こうあるべきだ”は無いのです。それはあなたの幻想なのです。生とは、本来、侭なりません。常に火の粉が注いでおります。抵抗するか、諦観するか、結局、二つに一つです。そこに善いはありません。そして悪いもないのです。
テーマ : 自己啓発 - ジャンル : 心と身体
2008/02/19 (Tue) 22:58
私たちは、悪い行為と自覚をしながら、好んで悪事を選択しますか?あるいは、それは止むに止まれぬ選択ですか?人は誰しも平和を好み、仲間と楽しく生きたいものです。人から好かれ、協調しながら生きたいものです。例え、孤独が好きなあなたも、不和より調和が楽しいはずです。だから、いつでも平和を願い、自ら好んで悪事はしません。
人は互いに互いを助け、関係しながら生活します。人(集団性動物)としての協調行動、それが社会の前提なのです。相互の依存、協調、行動、それが社会の様式なのです。だから善悪(るーる)が必要なのです。
“それは悪だ”と自覚をしながら、ルールを壊し、違反を為しても、好んだものではないはずなのです。恐怖や悲しみ、痛みや失望、何かの不満が原因なのです。そこから自分を解放するため、非難され得る行為に走る。悩みやストレス、追い詰められた悲壮な想い、貯めてしまえば破裂する・・・、あなたの心は限界なのです。抑圧された心の叫び、それを強いる人間関係、まずは自分を解放すること。ルールや正義を云々するより、首輪を外し、呼吸をすること、それが何より肝要なのです。
人は誰しも平和を求め、安心、自由を欲するものです。他人からの嫌悪の対象、仲間外れや、嫌がらせ、それは誰しも避けたいものです。だから、悪事は選択しません。好んで批判は選択しません。それでも悪事を選択するなら、何かの事情があるからなのです。自由意志では無いのです。何かに迫られ選択します。
不快の原因、苦痛の根源、その真相は、さまざまあります。数え切れない因果があります。虐待、貧困、病や挫折、悲惨はどこでも頻発し、差別や不等も日常的です。公平なんて存在しません。苛酷な環境、酷い生い立ち、誰が好んで生まれて来ましょう。
社会に対する不満や嫉み、自分を蔑む無知な者たち、それに対して悪意が生まれる。平等なんて理想の産物。誰があなたを救うでしょうか。社会がそれを正すでしょうか。個人の努力の如何によらず、優劣、それは端から生まれ、そしてあなたを翻弄します。しかし、それは運命なのです。受入れるしかないものなのです。
人は誰しも苦しむものです。とても無傷(むきず)で居られはしません。幾多の苦難を体験し、そして、今の自分に至る。愛に包まれ育った者は、この世を善だと考える。自分を愛し、自ずと社会を受入れられる。
愛を知らずに育った者は、闘いなのだと考える。自分を蔑み、抵抗し続け、どれほど涙を流したことか。受けた者しか判りはしません。語れる資格は当事者だけです。
かくして性格、あるいは、価値観、それらの因果は果たして何か。与えられし天与の資質、生まれ育った環境・体験、これらがあなたを形成します。それがあなたの人生観です。あなたの才能、あなたの身体、あなたの国籍、あなたの両親、それらは選択できないものです。
そして、あなたは形成されます。善くも悪くも影響されます。それは、果たして善悪ですか?あなたの意志の選択ですか?それは、あなたの運命なのです。
不満の原因、苦痛の根源、それらは一つと限りません。いろんな事象の混在なのです。あなたの天性、あなたの生い立ち、生の軌跡の集大成です。だから、そこには酌量すべき事情があります。社会のルールは、ともかくとして、人は結局、翻弄される。運命(さだめ)の中で生かされる。善いも悪いも存在しません。それは果たして幻想なのです。
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