カテゴリー

最近の記事

FC2カウンター

ブログランキング

ブログランキング 2

人気ブログランキング

ブログランキング 3

ブログランキング・にほんブログ村へ

ブログランキング 4

くつろぐブログ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログ内検索

リンク

ホームページ アフィリエイト レンタルサーバー1GB!FC2ブログ(blog)

カテゴリ内記事一覧

6:快楽と苦痛、まずは原動力を理解しよう

2008/02/17 (Sun) 10:29

 私たちは、悩みます。どんな人でも悩みます。痛み、苦しみ、悶絶します。では、悩みとはいったい、何でしょう。辞書を引くと“思い煩うこと、心で苦しむこと”などと書かれております。
つまり、悩みは不快であり、回避したい心の痛み、解決したい苦しみなのです。それでは次に、不快や痛み、あるいは、苦しみ、それらは、いったい何でしょう。そして、逆もまた然り、快や喜び、うれしさ、ときめき、それらはいったい何でしょう。

 進化論で解説しますと、アメーバやゾウリムシなど、原始生物には快や不快はありません。食物に近づくこと、あるいは危険から退避するなど、単純な反応があるだけです。ですから、快苦は進化の過程で発生しました。生命自体が自ら行動を採れるよう、その推進力として生まれたものです。

 やがて、快苦は、より複雑な感情へと進化を果たし、感情がさらに知性を育み、そして広範な行動を可能とする私たち人間へと発達しました。つまり、快苦は、能動的行動を促がす根本なのです。より生き抜くために進化した、すべての行為の原動力です。 
 生まれたばかりの赤ちゃんは、お腹が空くと泣き出します。満腹すると泣き止みます。それは快・不快による比較的、最初の行動です。生理的な刺激に基づく快や不快は、最初の欲求、そして感情であると言って良いでしょう。

 快とは気持ちの良いこと、満ち足りること、すなわち快感のことであり、現状維持への欲求です。その状態の継続を望み、あるいは、また、その体験をしてみたい(再体験)、そういう気持ちへ駆り立てます。

 一方、不快とはいったい何でしょう。気持ちの悪いこと、欠乏すること、すなわち苦痛のことであり、現状打破への欲求です。その状態を変更するため、行為を停止し、または、解決のため、逃げる、避ける、排除するなど何とかしようと行動します。つまり、快苦は行為のための最初の動機、発火点の役目をします。私たちを行動させる原動力が快苦なのです。
 
 そして、どんな行為も、意味や目的、理念でさえも、結局、最後は感ずることです。あらゆる行為は快苦を求め、そして快苦に還元されます。行為の結果は、快楽、苦痛のどちらかなのです。
 快感なくして幸はなく、快感なくして神さえいません。人は誰しも畏敬を払い、神の御下に跪く。苦しい時の神頼み、信じぬ者さえ希望を持ちます。それは一体、なぜでしょう。天国それは快感なのです。地獄それは苦しみなのです。神とはすなわち、快楽なのです。“快楽と苦痛の絶対者”、その象徴が神さまなのです。

 換言すれば、快感、それは神さえ超えます。神や仏は手段に過ぎず、あくまで「快」が目的なのです。神がどれほど正義を掲げ、背中をどれだけ後押ししようと、快感なくして幸はなく、快感なくしてやる気は起きない。神への祈り、戒律(おしえ)の実践、敬虔、堅実、奉仕や服従、それらはすべて快感あっての労働なのです。見返りあっての信仰なのです。これが行為の実態なのです。

テーマ : 壊れそうな心 - ジャンル : 心と身体


快苦と欲求コメント(0)トラックバック(0)|

7:求めるからこそ、苦悩する

2008/02/17 (Sun) 10:33

 快楽と苦痛、これらが行為の原動力です。換言すれば、生への意欲を生み出す基です。快苦が欲求を誘発し、あらゆる行為へ駆り立てます。そして行為は、結局、快苦へ戻って来ます。
 快苦の強さ、すなわち、求めんとする欲の強さは生理的危急の順に並びます。とりわけ、固体の保存が最も強く、ついで種族の保存、そして社会における自己実現、そうした順に並びます。
 それではここで、個体の保存を例に取り上げ、欲求とはいったい何なのか、その性質について解説しましょう。
 
第一に欲求は、何らかの欠乏状態に基づき生じてきます。
 欠乏状態とは、身体の生理的バランス(正常な運営を維持する)が崩れた状態のことを言います。これには、呼吸、睡眠、渇き、食欲、性欲、排泄などがあり、意志による統制が困難なものです。つまり、欠乏を充足すること、これ以外に解決方法はありません。悩んでいる暇などないのです。

第二に欲求は、何らかの行動に駆り立てる原動力を持っております。
 行動そのものを遂行する力は強烈で、初めは解決の努力として秩序だっておりますが、追い込まれれば、追い込まれるほど、何でもいい、じっとしてはいられない、そういう段階に進んできます。ルールなどより、行動自体が先行します。

 しかし、それでも、欠乏状態が度を越すと、エネルギー源が枯渇して動けなくなってしまいます。ついに生きていることに意義を感ぜず、ぼんやり寝そべって生気を失い、無為の段階に移行します。それでもなお、この状態となっても生存しますが、世の中に対する価値など無くなり、悩んでいる状態などではありません。

 第三に欲求は、特定の行動へと方向付けを行ないます。
欲しい、なりたい、そして、したい、具体的願望を実現するため、その方向へ向かって行動します。

 次に飢餓状態を例にとり、私たち人間が、どれだけ生に執着するか、具体的に探ってみましょう。
 飢餓状態に陥落すると興味の関心は、食べることだけに集中します。財産権や私有は無視され、財貨に対する価値や評価が変わります。食べられるものと食べられぬもの、そういう割切り方が強くなり、窃盗、強盗が頻発します。慢性的空腹感のイライラで暴動が起こりやすく、我欲だけが先行します。

 社会的連帯感は衰退し、エチケットは放棄され、世話、面倒を見る範囲が縮小されます。最初は個人的な仲間に限られ、ついで親子の間に狭まり、最後は自分だけでも生存しようと本能だけが残ります。

 物覚えが悪くなり、所かまわず横になり、大道にねころんだまま、無気力状態に陥ります。そして、最後は、何でもよいから食べられるものを、そういう意識だけが残ります。つまり、それは人肉さえも食べることを意味します。

 このような社会性の喪失と心の精気が減退しても、なお、大多数の人間たちは、あくまで命に執着します。自殺は殆どありません。生に対する保存の欲は何にもまして強烈なのです。
 こうした、生理的な不均衡、そこから生ずる欲求は、一次的欲求、または、純粋欲求と呼ばれています。快苦の起因が明確で客観的に判ります。尤も、欠乏から来る苦痛は強く、充足するしか解決方法はありません。この点、悩んでみても無意味です。悩む暇など無いのです。行動するしかありません。死活を賭けた欲求なのです。

 これに対し、後天的で、経験により習得された欲求は、二次的欲求、または、準欲求と呼ばれています。群居性・模倣性など社会的なものが多く含まれ、自分の意思に基づくものは、大半、これに当たります。しかし、純粋欲求(一次的)・準欲求(二次的)の境界線は引きにくく、厳密な区分は困難です。

 純粋欲求の実現は、ある程度摂取によって充たされますが、準欲求に基づくものは、次から次へと生まれて来ます。はじめの線まで到達し得ても、なお、欲求は飽きたらず、今度はあれも、あるいは、それもと募ることが多いのです。物欲・独占欲・権力欲・名声欲・収集欲などが準欲求に属します。

 かくして、苦悩!私たちを苛む痛み、それは準欲求(二次的)から生じてきます。準欲求が叶わないとき、そして、なおも執着するとき、そこに悩みが起こるのです。

テーマ : 壊れそうな心 - ジャンル : 心と身体


快苦と欲求コメント(0)トラックバック(0)|

ブログ TOP