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私は世界と共にある。それは私が体験するため!
- 2008/08/10(日) 15:29:43
前号からのつづき
かくして、世界は立ち現れる。「私」と共に認識される。「私」が在るから現出される。「私」以外のあらゆる現象、仲間も宇宙も「私」を軸に「私」と同時に認識される。「私」は世界と共に在る。「私」が無ければ世界は消える。すべては「私」と一体なのです。すべては「私」の体験なのです。
しかし、あなたは言うでしょう。それは飽くまで言葉の遊び、自分がいようと、自分がいまいと、世界は別個に存在すると。そして、時間は流れていると。確かにそうかもしれません。「私」が死のうが世界は在ると。小鳥はさえずり、朝陽は昇ると。
しかし、それでも「私」にとっての「私」の体験、それが世界の在りようなのです。そのようにしか映らない。そのようにしか感じない。ならば、それが「私」の世界。唯一、それが現実なのです。
かくして、私に言えること、たった一つ確実なこと。それは「私」が感じていること、「私」は何かを体験すること、「私」は確かに存在すること。それが「私」の実存なのです。そして、“感じる”、“体験する”とは、“認識する”が前提なのです。“存在する”とは、“認識する”こと、それが事の始まりなのです。
「私」は「私」を絶対軸に違いによって認識し、そして、世界は立ち現れる。違いは、かくして、個性を現し、世界は個性で表現される。煎じ詰めれば、存在すること、それは果たして個性のことです。認識するとは関係性です。個性と個性の関係性が網目のように事象を創る。「私」は事象を認識し、あなたや世界と関わり合います。自我を主体に関り合います。
私たちは人それぞれに役割をもち、関係しながら暮らしております。家族や友達、組織や社会、それらを通し、互いが互いに関り合います。あるいは、それは個性自体の性質により、周りに作用を発しております。
そして、それらは網目のように、すべてのものが繋がり合います。風が吹けば桶屋が儲かる!途切れることなどありません。始めも終わりもありません。どんなに糸が細くとも、あるいは、互いが遠くにいようと、必ず個々は繋がり合います。全体として存在します。関係性は部分と同時に、全体として存在します。私とあなた、私と物質、私と自然、それはかくして、一体なのです。世界はかくして、関係性です。
私たちは体験するため存在します。表現するため実存します。関係性は、私が私を体験するため、私が私を表現するため、整えられた舞台と言えます。関係性の網目(全体)を介し私は私を演出します。
見方を変えれば一体なのです。あらゆるものは全体なのです。体はもともと一体なのに手足や頭を区分する。地球は元々一体なのに山や海を区分する。人が勝手に区分を設け、それに意味や理由を付ける。
全体性から抜け出すためには、区分や区別が必要なのです。意味や価値を創造するには、分類、差別が必要なのです。違いに基づき区分けを行い、それらによって表現される。違いが無ければ表現できない。個性がなければ体験できない。山も海も地球を表し、そして、地球も表現される。山や海で表現される。
ですから、個とは表現なのです。個と全体は表現なのです。存在すべてが表現なのです。個は全体から生まれて来ますが、個が在ることで全体自体も認識されます。個の反証が全体なのです。神(全体)といえども人(個)が無ければ存在しません。人の反証、それがすなわち神さまなのです。互いが同時に互いのことを互いによって表現します。
かくして、存在、それは違いや個性のことです。存在、それは関係性です。私は「私」を絶対軸に、私といった個性(自我)を基に、家族や社会と関わり合います。そして、私を表現します。あるいは、私は体験します。
究極的には、私(主体)とあなた(客体)、その認識が世界を創る。私の自我は、あなたや世界と共に在る。そして、「私」は事象を見つめる。不変の「私」が俯瞰する。存在、それは不可知であるのに、脳(認識)が世界を創り出す。
かくして、“認識”、それが世界の始まりなのです。それが私の始まりなのです。認識すること、それはかくも重要なのです。
テーマ:
- 心と身体のケアを大切に! -
ジャンル:
- 心と身体
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