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生はいつでも体験により明かされるのです 

  • 2008/09/07(日) 09:41:54

 例えば、あなたが初めて山に登るとします。登山の仕方を何かで調べ、あるいは、誰かに聞いたりします。装備品の名前や服装、傾斜や地形、気候の読み方・・・、登山に向けて万全を期し、あれこれ考え準備をします。そして、あなたは登山の楽しさ、登頂による達成感、疲労の後の心地良さ、はたまた遭難しそうな危険な話、色んなことを想像します。

 しかし、それらはあくまで知識。どれだけ聞いても言葉に過ぎない。頭の中での思索に過ぎない。実際、あなたが登山をして見て、はじめて山とは何かを知ります。体験してこそ血肉となって深く心に浸透します。自分が直接体験すること、それが真に知ることなのです。

 かくして知るにはレベルがあります。知識や言葉は限られており、伝わる量は制限されます。頭の働き、思考や論理、想像だけでは物足りません。活字だけでは平面すぎます。五官(目、耳、鼻、舌、皮膚)を使い、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)で味わい、全体として経験すること。実際、自分が体験すること、直接、自分が感じてみてこそ、最もリアルに体現できます。

 知識はすぐにも増やせはしますが、取っ替え引っ替えでき得るものです。意味とか、善悪、理想や思想、それらは単に言葉の遊びにすぎません。活字の羅列にすぎません。その場、その場ですり替えられます。立場や都合で操縦できます。

 しかし、ほんとに自分が感じるためには知識だけでは達成しません。分析、計画、予測や論理は、頭の中での理解にすぎず、思考や理由はあなたの都合、あなたの立場で組み立てられます。真の理解は体験すること。多くの火中を潜り抜け、体験してこそ達成されます。

 自分自身が感じることです。直接、事物と接することです。自分自身が五官を使い、実際、自分でやってみること、実際、自分がなってみること、“する”、“なる”ことを実践すること、そこに真の気づきがあります。

 かくして、夕陽は見るのが一番。ギターの音色は聞くのが一番。バラやフジの香(かぐわ)しさ、それは嗅ぐのが一番なのです。あなたの食べたいラーメンの味、それは実際、食べてみること。赤ちゃんの肌の柔らかさ、それは実際、触れてみること。言葉だけでは伝わりません。観念だけでは机上の空論。体験するのが一番なのです。

 私たちはどういうわけか、言葉によって知ったような気分となります。本を読んだり、調べることで、解ったように錯覚します。しかし、それは外面(そとづら)だけです。表面だけをなぞったたけです。説明だけでは自転車乗りさえ不可能なのです。

 タイヤがどうで、ペダルはああで、どんなに分析、思索をしても、乗って初めて実感できます。ペダルを踏んで、何度も転んで、自分自身が体験すること。実際、自分でやってみること。痛みや歓喜を感じてみること、自分でするのが一番なのです。

 マスターするにはやってみるしかありません。何度も何度も反復してこそ、自然と身体も覚えて行きます。運動だけではありません。人生自体がかくしてそうです。生きる自体が総じてそうです。

 生きる目的、あるいは、ポリシー、それらは各人各様ですが、働くことも、子育てするのも、富みを得るのも、夢を果たすも、みんなみんなやってみること。あなたが実際、行動すること。体験してこそ具現化されます。頭脳と五体、感や勘まで、あなたの持ち得るすべてを使い、全存在が体感すること、それこそあなたの実存なのです。

 恋愛論をどれほど読もうと、実際、恋に落ちてみること。心が痛み切なくなること。これこそ生に深みを生みます。あるいは、あなたが病気となって初めて元気のありがたみ、健康なことへの感謝を知ります。親になって子供に対する愛情を知り、貧しくなってお金や物への大切さを知り、富豪となって奢りや虚栄・傲慢を知り、悩みを持って日々安心の素晴らしさを知り・・・みんながみんな体験により自分にとっての気づきを生みます。

 体験、それは自分の生をリアル化すること。自分の生を現出すること。自分の生を表現すること。そして、同時に自分の生の基盤を創り、行動パターンを形成します。かくして、体験!それは生の創出なのです。自分の個性を奏(かな)でることです。

 私たちの人生は、自分が自分を体験しつつ、自分の内部で起こっています。自分の脳が事象を映し、五官(目、耳、鼻、舌、皮膚)を使って体感します。他人の生を体験するなど逆さになっても不可能なのです。他人の生を感じることなど直接的には不可能なのです。他人の生は他人のものです。結局、他人は他人であって自分は他人になれません。他人はかくして別世界!隔絶された存在なのです。

 私たちは自分の内部で事象を感じ、他人の生は想像するよりありません。他人の生を他人が生きる。あなたの生はあなたが生きる。私もあなたも自分を生きる。他人と私は共感できても同一体では無いのです。

 顔も生まれも育ちも違う。好みや価値観、運命(さだめ)も違う。すべての点で似てはいても全く同じはありません。他人はかくして他人にすぎず、あくまで生とは自分のことです。生きることとは自分の体験、自分自身に還元されます。

 ですから、あなたが他人に問うても、それはあくまで他人の意見(思考)、あなたにとっては、借り物なのです。単に一つの参考なのです。あなたの中で生きてはじめて、知識はあなたの生となります。他人と自分は取り替えられない。すべての事象は結局、自分!自分の個性の展開なのです。

 かくして、生とは体験すること、自分自身で感じてみること、それが普遍の要(かなめ)と言えます。私たちはどんな人でも体験します。愚者も賢者も体験します。歓喜も苦痛も体験します。それはあまりに当然過ぎて、生=体験だとは、なかなか自覚が出来ないものです。

 だから、もっと生きがいのある、自分にとってやりがいのある、何かもっと特別なもの、それらが生だと探索します。生きる意味や目的、理由、それらの自問を繰り返し、あなたは延々探究します。

 しかし、それでも不変の答えはありません。絶対こうだはありません。あなたの信じる意味や理由は、あなたにとっての信条なのです。あなた個人の選択なのです。普遍のものではありません。

 だから、生には失敗、挫折、こうあるべきだはありません。無駄も徒労もありません。普遍にあるのは体験なのです。答えはすべてその人個人の感想なのです。あなたの価値観、好みや関心、信条レベルの反映なのです。

 かくして、あなたが生の途上で、成功しようと失敗しようと、達成しようと挫折をしようと、希望があろうと絶望しようと、神がいようと悪魔がいようと、すべては事象を体験すること、直に行為し感じてみること、体験により解き明かされます。

 実現、それは体験なのです。実感、それは体験なのです。現実、それは体験なのです。存在、それは体験なのです。気づきや感動、泣くも笑うも、それらはすべて体験なのです。かくして、生とは体験(参考:体験、それはあなたが選ぶ)なのです。

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納得です。

自分がこの世界に触れられるものは肉体以外に何物もありませんからね。。



故にこの世界の情報を中身に伝えられるのはこの世界にある肉体のみ。



正直、 言語ってのは信用ならんです。

嘘は言語でわからないですから。


聴く事自体は、 「体験」ですけど、

それが真実かどうかは定かじゃありませんしね。


あってたとしても、 情報量が格段に乏しいでしょうし。




・・ぅん、  ですね。。何

  • 投稿者: -
  • 2008/09/21(日) 09:33:50
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