私たちは、夢や希望を喪失したとき、不当な仕打ちや挫折や恥辱、悲惨な思いを体験したとき、自殺を考え、そして、実際、死にゆく人もたくさんいます。日本においても、年々自殺は増加を辿り(年間、3万人超)、ネット自殺も急増中です。
ところでネットを覗いて見ますと・・・
“なぜ、死んではいけなのですか?”こうした質疑が、たくさんあります。
“なぜ、私たちは生きるのですか?”こうした疑問がたくさんあります。
そして、なぜ?とは、どうしてなのかと問うことなのです。理由や意味(参照:
意味とは何か)を求めることです。つまり、なぜ?とは知性の問い(参照:
虚無とは何か)です。そして、知性は生き抜くために、進化の過程で発達しました。
私たちに備わる知性は、過酷な自然を生き抜くために、そして、種族を保存(遺伝子を引き継ぐ)するため、生命自体が生み出しました。鳥が翼を得たように、猫の爪が鋭いように、それぞれ固有の生命体は、独自の進化を生み出しました。
そして今日、私たちに備わる知性は、他の生命体を圧倒し、科学や技術で文明社会を構築しました。しかし、それでも、人間だけが自殺をします。人間だけがなぜ?を問い、人間だけが絶望します。それはすなわち、知性のゆえです。知性があるから自殺をします。
つまり、自殺は知性が未来を悲観すること、あるいは、未来に絶望すること、これが大きく影響します。自殺に関する是非についても、それが果たして問答ならば、あくまで知性の領域なのです。
(* 自殺がダメだと納得しても苦痛が大きく耐えがたいなら、なおも自殺はあり得ます。これは知性の領域外です。)
ですから、ここでは、なぜ?とあなたが質問するなら、知性(理性)に沿って常識的にお答えしましょう。
知性だけが、なぜ?を問い、人間だけが自殺をします。自殺の多くは知性に根差した思考の持ち方、考え方が影響します。しかし、それでも、知性なくして、私たちは生きられません。知性があって、人間社会が成立します。
かくして、知性は、私たちが生き抜くために、生命体から生れたものです。知性だけではありません。本能、感情、意識でさえも、生命体から生れたものです。生命体は、自分を存続させるため、あの手、この手で進化を誘(いざな)い、生き延びようと適応(変容)します。
つまり、生き抜くためのすべての機能は生命体が土台となります。生命自体が母体なのです。知性はあくまで手段であって、目的なのではありません。強いて言えば、生命体が生存すること、知性はそれの道具と言えます。生命自体が主人(全体)であって知性はそれの従属(部分)なのです。
もしも、この世に競争など無く、容易に生存可能とするなら、知性は進化を遂げたでしょうか?恐らく進化は無かったはずです。進化論的価値観からは、必要性が要件なのです。必要性が無いとするなら、知性も端(はな)から生れはしません。
生命体の進化史は、自然淘汰を生き残るため、必要だから発達します。必要なければ進化の理由は存在しません。生命体が最初に在って、必要性が生まれて来ます。生命(存在)自体が前提なのです。問いや疑問は生命なのではありません。生きる意味とか儚さ、虚無感、それはあくまで知性の側です。生そのものではありません。
私たちに備わる知性は、意味化を介し、目的を決め、何かのために指針を示す。理由が無いと途端にやる気を失くしてしまう。別に無意味なことが悪いわけではありません。低俗なのでもありません。しかし、それでも、知性にとっては、何のために?が必要なのです。
競争社会で生き抜くためには、目的を持ち、常に考え、実行しないと転落します。ですから知性は、無為や無意味を軽蔑します。より良く生きる、それが知性の願望なのです。
“無目的な生命体は、何か無価値なように感じられる”、それは、ある意味、自然なことです。自然淘汰を生き延びる。その百計を知性が巡らす。それが知性の役割なのです。
実際、命は知性を生み出し、子孫を紡ぎ、何万年と生きて来ました。そして、今後も、自ら自分を進化させ、永続化する存在なのです。そして、知性は部分に過ぎず、命を補佐する僕(しもべ)のことです。
例え、知性が、富や名声、美貌や権力・・・・、いわゆる人の上位に立つこと、生の意味とは成功すること。勝利者なのだと断じてみても、命の前では詮無いことです。成功・勝利は、大河の中でのさざ波なのです。知性で命は解明できず、それはもっとも深淵なのです。命は遙かに広大なのです。
むしろ知性は生命体を存続させる単に一つの機能であります。そして、命はたとえ今が苦痛であっても必ず自分を適応させます。苦痛のままではいられはしません。不幸のままでは耐えられません。
知性が何かにしがみ付き、執着、妄想、狂信、深刻、そうした事態にならない限り、命は自分を変容させます。それが淘汰を生き抜く凄味!不変のままなどあり得ない。生とは変化、そのものなのです。
事象は常に移ろい変わり、考え方も塗り替えられる。ですから、知性は、その時々の刹那に過ぎず、本性なのではありません。“あなた=知性”なのではありません。いいえ、あなたは生命なのです。あなたにとって不変なものは唯一あなたが在ることなのです。
生命、それは在りて、在るもの。なぜ?ではなくて体験なのです。そして、なぜ?は体験よりも表面的です。ですから、なぜ?を問うことにより、生命自体を否定すること、知性によって自殺をすること、母体自体を抹殺すること、それはすなわち、家来(自我)が主人(神)を殺すこと、あってはならない反逆なのです。
自殺は、まさしく本末転倒!知性自体が生きる理由を渇望しても、あるいは、虚無に無力であっても、結局、知性は手段に過ぎない。オウンゴールは過(あやま)ちなのです。もしも、知性が確信し得ても、それは、そこでの、その時々の、その立場での、単に1つの考え方(思い込み)です。命を裁く何様なのでは無いのです。
むしろ、すべての感動、あらゆる体験、それはまさしく命のゆえです。命が生み出す表現なのです。ですから、命を存続せしめ、只ただ生を体験すること、それがまさしく肝要なのです。
あとのことは存在自体に委ねてみましょう。生命自体を信頼しましょう。あるがままで良いのです。観念的な呪縛を手放し、もっと時間が過ぎ去った時、今ある自分を深刻すぎたと笑える日々が必ず来ます。本当に、そうです。これもまた、過ぎ去るのです。
テーマ : うつ病(鬱病)、メンタルヘルス - ジャンル : 心と身体